じゃっきーとふしぎのくに



1 びゅうびゅう、くるくる



 モニタから外を見ると、昼間だというのに薄暗く、何もかもが濡れてびしょびしょになっていました。
 朝起きてから今まで、もう五回以上そうやってジャッキーは外を観察しているのですが、待ちわびている光景にはちっともなりそうにありません。
 ふう、と小さな溜息をついて、背伸びしていたつま先を戻して。
 「のいまんしゃん、あめはいつおわり?」
 「うーん…」
 隣にいたノイマンさんに聞いてみましたが、その答えもやっぱり五回目の今回も同じでした。
 ジャッキーは、雨がやんで天気が回復するのを今か今かと待っているのです。
 「おてんきよくなやないと、おきゃくさんこえないんでしょ?じゃっきー、てゆてゆぼうじゅ、つくったのになあ…」
 ベッドの天井端にくっつけた、てるてる坊主。ジャッキーの期待に応えられなくて申し訳ないのか、元気なくうなだれています。
 指先でちょこんと人形を揺らして、ジャッキーはまたしょんぼりしてしまいました。


 今日は、本当ならアークエンジェルにお客さんがくるはずでした。そして、ジャッキーと同じような子どもも一緒にやって来ると聞いて、ジャッキーはそれはそれは楽しみにしているのです。お友達になってくれるかしら?という、小さな不安もあったのですが。
 ところが、昨日から急に天気は下り坂、未明からは嵐と言っても良い程の荒れ模様になってしまったのです。これでは、お客さんも来るのに容易でありません。アークエンジェル自体海の上にぷかぷか浮いていて、移動するのも危険だという事で、待機中です。
 先ほど、通信が届いて、天気が回復次第予定通りそちらへ向かう、という連絡がありました。
 それでジャッキーは、一分でも早く雨がやまないかと、外を何度も眺めていたのでした。


 艦内にいるとさっぱり分かりませんが、風も相当強いみたいだと、ノイマンさんが言っていました。
 雨か風か、どっちかだけでも弱くなれば、来れないかしらん?
 ふとそう思ったジャッキーは、ノイマンさんにお願いして、ほんのちょっとだけという約束で甲板に出てみることにしました。
 ノイマンさんとしては、ジャッキーに万が一があってはいけないし、外になんて出したくなかったのですが。
 楽しみにしていたお友達も来れなくてしょんぼりしているジャッキーのお願いに、つい頷いてしまいました。
 ノイマンさんの言う通り、しっかり支度をします。
 黄色いレインコートと、赤いレインブーツ。どちらもジャッキーのお気に入りです。
 雨が降っているのだから、傘も必要だよね?
 ジャッキーは一人頷いて、子ども用の小さな傘も手に取りました。そういればこれは、買ってもらってからまだ使った事がありません。試しに開いてみたことがあるだけです。
 ぜひこれを開いて、くるくる回したり、してみたい―――絵本の挿絵で見たのを思い出し、ジャッキーは段々ご機嫌になってきました。



 ジャッキーこそ、まるで黄色いてるてる坊主みたいな格好で、ノイマンさんが開けてくれた甲板への扉をくぐります。
 「わっ」
 「うっぷ…すごい風だな…」
 傘を広げる間もなく、ものすごい勢いで横殴りの雨が全身に飛んできます。顔にもひっきりなしに雨粒が当たるので目を細めつつ、ジャッキーはじいっと空を見上げました。
 どろどろとした灰色の雲がいっぱいで、見慣れた蒼い空はどこにもありません。空どころか海もいつもと全く違って黒く、高い白波が棘々のよう。落っこちたらとても痛そう、気をつけないと。
 「これじゃあ、まだまだ晴れそうにないな…残念だけど、ジャッキー」
 「くもしゃーん、おねがい、あっちいってー!」
 雨雲というものが雨を降らしていると教えられたジャッキーは、声を張り上げて言いました。…でも、何回お願いしても、雲が動く気配はありません。
 「もう…!」
 ぷー、と頬を膨らまして。
 そこでやっと傘を持ってきた事を思い出したので、ジャッキーはいそいそと広げようとしました。これで雨を避ければ、もっと空を見上げやすいだろうと。
 「じゃ、ジャッキー!?この風だ、傘を差すのは無理―――」
 ノイマンさんが慌てて注意しましたが、強風と大雨でその声はジャッキーに届かなかったのか…黄色いパラソルがぱっと開いて―――

 「あっ?」
 グリップをしっかりと握り締めていたジャッキーは、何だか妙な感覚に首を傾げました。足元がふわふわするような…
 咄嗟に隣にいるはずのノイマンさんを見ましたが、ビックリしたように目を丸くしています。しかも、ジャッキーの正面で。
 「・・・?」
 ノイマンさんはジャッキーよりずっと背が高いから、いつも見上げるはず。
 変だなあとジャッキーが周りをきょろきょろすると、ようやくおかしい原因が分かりました。
 「のいまんしゃん!じゃっきー、とんでゆ!」
 ちょうど逆風に傘を開いたので、パラソルが風を受けて、ジャッキーの軽い体ごと浮かせていたのです。

 ジャッキーは空を飛んでいる―――どちらかといえば宙に浮いている―――状態が楽しいのかはしゃいでいますが、ノイマンさんは、さあ大慌てです。
 「あわわわわ…じゃ、ジャッキー、降りてきなさい!」
 言いながら手を伸ばしてジャッキーを掴まえようとした、その時。

 びゅうっと一際強い突風が吹き、ノイマンさんが差していた傘と、黄色い傘はものの見事に風を孕んで飛ばされてしまったのです。
 反射的に傘を離すまいとしたジャッキーも、一緒に。
 「なっ―――」
 何が起きたのか―――愕然としていたノイマンさんでしたが、荒れに荒れた空の下、鮮やかな黄色が間もなく小さくなって、ついに見えなくなってしまうと―――それはそれは、何とも凄まじい表情になりました。
 「ジャッキーーーー!!!」





 「かか艦長ー!チャンドラー!キラー!」
 血相を変えてブリッジに飛び込んできたノイマンさんを見て、みんなぴたりと硬直しました。全身ずぶ濡れで、青いのか赤いのか良く分からない肌色で、しかも目を見開いていたりすれば、そりゃあ誰だって驚き…いや慄きます。
 「どっだっ、じゃ、かさっ」
 足と一緒に舌まで縺れたらしいノイマンさんの訴えは、意味を成しません。
 「どうしたのノイマン君、ちょっと落ち着いて」
 マリューさんが仕方なく肩を叩くと、ノイマンさんは引き付けたように仰け反り、それから無理矢理自制したのがありありと分かる相好で、

 「ジャッキーが、飛んで行ってしまいました…!」

 マリューさんはぽかん、と。
 チャンドラさんは眼鏡がずり落ちて。
 キラ君は開いた口が塞がらず。

 次の瞬間、ブリッジに思い思いの叫び声が飛び交いました。










 と、ここで、所変わって。そして時も少し遡ります。

 とある港町の豪華なホテル。
 少年が一人、物憂げに雨垂れ伝う窓を眺めていました。
 室内は暖かいので、温度差で曇るガラスを拭き拭き…
 しばらくすると部屋に誰か入ってきました。その人はまっすぐに少年の傍へ寄り、ぽんと肩に手を置きます。
 「残念だったね…しかし、遅くなってもちゃんとアークエンジェルには行くから。今はもう少し我慢しなさい」
 「…はい」
 少年は素直に返事をしましたが、表情は暗いまま。
 「そんなに会いたいかな」
 「ぼくと同じくらいなんでしょう?…おともだちに、なれたらいいな、って」
 「そうか…お前の周りには、同年代の子どもがいないからね…」
 同情するようにそう言って少年の頭を撫でたその人は、ソファで寛ぎ始めました。
 「あの、」
 「ん?どうした?」
 「ちょっと、外を見てきていいですか」
 「構わんが…濡れないように、ちゃんと支度をして行きなさい。それから」
 「はい、遠くには行きません。バルコニーに出ます」
 「そうか」
 それっきり目を閉じて休んでしまった人を横目に、少年は軽い足取りで旅行荷物から外套を出して羽織ると、隣の部屋からバルコニーヘの窓を開きました。

 あいにくレインコートは持ってきていなかったので、仕方なく選んだものの。
 あの人が与えてくれたその、どちらかと言えば可愛い…ふわふわとした外套は、この嵐の中外へ出るのに適しているとは言えません。むしろ余り、濡らしてはいけないような…。
 少年がバルコニーに出ると、風の向きが変わって、横長のバルコニーを左から右へと吹き抜けるようになりました。
 ばたばたと騒がしい外套の裾を手で押さえつつ、四方の空を見てみましたが、期待していたような空模様は見つけられません。
 これではやっぱり、まだまだ足止めを食らいそうです。
 無念そうに重苦しい空を一瞥して、少年は諦めて室内に戻ろうと一度きちんと閉めた窓を開けようと手を伸ばしました。
 伸ばした袖と、押さえのなくなった裾を、容赦なく風がはためかせ、一瞬少年の平衡感覚を失わせました。
 「う、わっ…!」
 急に強くなっていた風が外套の中に入り込んで、少年の体を持ち上げました。すっかり濡れていた生地は風を通過しにくくしていて、外套が風船のようになってしまったのです。
 雨で濡れた周囲はどこも滑りやすく、窓の取っ手からあっさりと少年の手は外れてしまいました。
 「わ、わぁっ!?」
 急激に体に圧し掛かった落下感に、少年はどこともなく手を伸ばし―――掴んだのは、バルコニーの柵。
 ちらりと下を見ると、随分と遠くに地面が見えます。あぁ、もしこの手が外れたら、落ちてしまう!でも、自力でこれ以上登るのは無理そうです。
 少年は、半端に開いた窓に―――室内にいるあの人を呼ぼうと、必死に大声を出しました。


 「ギルー!助けて、ギル!」
 ソファでうとうとしていた彼は、幼い呼び声にはっと目を覚ましました。
 「うん?レイ?」
 「ギル〜!」
 室内を見回しますが、どこにも見当たりません。声は一体どこから―――外?
 自然早足で窓に駆け寄ると、ぎりぎり視界に、少年の姿が入りました。
 「レ、レイ!?」
 バルコニーの柵の外側、今しも落ちそうになってぶら下がっているのは…
 ギル―――ギルバートさんは、蒼褪めて、つんのめりながら大慌てでバルコニーヘ飛び出しました。
 「一体何を―――レイ!」
 ギルバートさんが来てくれたのでほっとして気が緩んだのか、しがみ付いていた手の力がほんの少し抜けて、濡れた柵がつるりと滑って―――レイの体は再び風に浚われてしまいました。
 ギルバートさんの背後から突風が吹きつけ、長い黒髪を思い切り乱し、一瞬目を閉じた彼がレイのいた所まで走り寄った時には…少年の体はくるくると運ばれていくばかり。
 「そ、そんなバカな…」
 呆然と立ち尽くすギルバートさんは、その後お付の秘書官さんが来るまで、バルコニーからレイの消えた空を見つめ続けていました。











ねくすと→「ひらひら、どきどき」


2005/12/4 雪里