その日主は夢を見た。







 朝未だき時刻。
 例え必要でなかったとしても、習慣で目覚めたであろう―――トダカは布団の上に上体を起こし、深呼吸した。念の為目覚ましのタイマーはセットしてあるが、大抵予定時刻の五分前に自然目が覚める。不思議なものだ。今日もまた用を果たせなかった目覚し時計が恨めしそうに秒針を刻んでいるのを確かめ、タイマーを解除した。
 太陽はまだちらとも出ていないので、障子はそのままにして、部屋の電気をつける。手早く身支度を整えると、コップ一杯の水だけを飲んで、家を出た。

 街路にはまだ夜間外灯が燈ったまま。三月にしては寒すぎる外気に肌が粟立ち、トダカは無意識に外套の襟を寄せた。うっすらと青い空気に、吐息が白く溶けていく。
 彼が仕事用に使っているワゴン車、中は当然の如く寒い。早く暖房が効く事を願いながら、エンジンをかけた。



 住宅街ならばまだ静かな眠りを貪っている頃だが、此処は違う。晧々と裸電球が点され、潮の匂いが充満した半屋外は大勢の同業者がひしめいている。あちこちで怒号が飛び交っているが、別に喧嘩しているわけではなく。それらは全て、商売をする人間の駆け引き。
 トダカもまたその群集の一部になるべく、歩き出した。
 濡れた床一杯に所狭しと並ぶ海産物を、素早くチェックしながら―――トダカの歩みは決してゆっくりとはしていない。
 此処は、近隣の漁業関係者が集う、魚市場なのである。今朝早く上げられた様々な漁の成果が、次々と業者に引き渡されていく。


 この魚市場に程近い場所で寿司屋を営むトダカは、当然連日早朝この市場へ赴き、その日供するに値する寿司ネタを仕入れるのだ。
 時折掛けられる声に適当に応えながら吟味していたトダカは、一際大きな呼び声に顔を上げた。

 「おうトダカ、今日は何持ってってくれる?」
 「艦長、朝から元気だな」
 「当たり前ぇだろ、漁師が萎びてちゃ、魚まで腐っちまうよ」
 やけに威勢のいい声と物腰。トダカがいつも仕入れの大方を済ます相手だった。
 鱗のついたエプロンをぱしりを叩き、彼は傍らの商品を示した。
 「今日のおすすめは?」
 「そうだな〜タチウオがいいの入ってるな、あとはマダイにマアジ…」
 言葉に従ってトダカの目は、まだ目の輝きすら残る魚達を鋭く見据える。
 「そうそう、あとカンパチよ。もちろん養殖じゃなくて天然モノ」
 「ふむ…」
 確かに、売り手の言い分はトダカの目にも適うようだった。
 手早く吟味を済まして買い付け分を告げると、今度は価格の交渉に移る。
 トダカは指を三本立てると、途端に相手の顔が情けないものになった。
 「おいおいトダカさん、それじゃこっちの分がないってもんだろ?これ位は貰わないと」
 そう言うと、手の平をばっと広げた―――五本。
 今度はトダカが首を振る。
 「それだったら他で買うまでだな。譲歩したとして…」
 三本と半分。
 相手の指が、四本と半分。
 トダカの手が、四本になる。
 全く表情を変えないトダカに、折れたのは相手だった。
 「分かった、じゃあ四だな!ったくトダカの旦那には敵わねぇや!いいモンみぃんな安く持ってかれちまう」
 「良く言う、」
 折り合いがついたところでようやくトダカの目と口元が緩む。目を細めて笑うと、目尻に小じわが寄り、彼を実年齢よりも幾つか年上に見せる。
 買い上げた魚を台車に乗せながら、二人は世間話を始めた。

 「店の方は、景気はどうなんだ」
 「食える程度にはやってるよ。艦長こそ、働きすぎなんじゃないか」
 「バカ言うない、まだまだ現役だ」
 ―――二人は、寿司屋と問屋という関係だけではなかった。ふと作業の手を止め、こちらを見つめる気配に気付いたトダカが、問いた気に相手を見上げた。
 髭面と黒縁のメガネに飾られた顔、瞳の色が揺れている。
 「むさい顔で見つめられてもときめかんぞ」
 「―――なあトダカ、もう船には乗らねえのか」
 「またその話か」
 トダカはふいと視線を落とす。視線の先で氷漬けにされた魚が、無感動にトダカを見つめ返している。
 「俺はよ、未だに船乗って魚獲って、自分で獲ったヤツを自分の手で信頼できるヤツに売ってる。そこまでして、ようやくちったぁ満足できる」
 「だから艦長なんて呼ばれてんだろ、結構な事だ」
 「お前の腕は、良く知ってるつもりだ。お前が誰よりも海が好きだってのもな。…それでも、もうすっかり陸の人間になったのか」
 「海は好きさ。釣りだって偶にするぞ。―――だけど、」
 「もう、二年だろう。…大体アレはお前の責任じゃ、」
 「艦長」
 時々思い出したようにこの話題を持ち出す相手だったが、今日はやけにしつこい。トダカは遮るように呼び、すっと立ち上がった。気圧されたのか、口を半開きにしたままの相手に、静かに首を振って見せた。
 「これで全部だ。また明日頼む」
 「―――あぁ」
 代金を払い、トダカは台車を押しながら背中を向けた。
 一歩踏み出した彼の背中に、市場内の喧騒にかき消されそうな程の声が掛けられる。

 「俺は、もう一度お前と一緒に船並べたいと思ってるよ」





 トダカは元々船乗りだった。自分の船を持ち、一年の内ほとんどを海上で過ごす…正に海の男。自分はこうして一生を費やすのであろうと漠然とだが思っていたし、恐らく家族始め周囲もそう認識していたであろう。
 だが、彼は二年前のある事件を境に、陸に上がった。事件そのものは、彼には直接関係はなかったし、多少の被害は被ったものの、海での生活を続けられない程ではなかった。
 しかし彼はその後、船を売り網を捨てた。
 海が嫌いになったのではない。実際全く無関係の再就職などする気にはなれず、海に程近い土地に店舗を借りて寿司屋を始めた。趣味でとっていた免許だったが、獲るだけでなく収穫した魚をさばいたり料理するのも好きだった彼は、すぐに腕をあげ、経営は軌道に乗り始めている。










 その日、客足は特別多くもなく少なくもなかった。
 良いものを安く提供する―――口コミで評判は広がっているようで、偶に前触れ無しに店内が人で溢れたりもするのだが、今日はそんな様子はない。
 ぽつぽつといる客の注文を受け、しかし焦る必要もなく淡々と寿司を握っていると。
 からりと戸口の開く音がして、顔を上げたトダカの視界には、暖簾を手で避けている若い男性二人連れの姿が入った。
 「っらっしゃい」
 お決まりの文句を投げかけると、一人が「どうも」と言って連れを促した。
 「カウンタいいですか」
 「ええ、どうぞ」
 先に入っている客はいずれも座敷の方で、カウンタは誰もいない状態。
 コートを脱いだりしている客を一瞥して、おしぼりと茶を二つカウンタに置いた。
 トダカは、口数が多い方ではない。適度な世間話位はするが、客が連れ合いである時は、ほとんど自分から話し掛ける事はなかった。
 結果的に、カウンタに座った客の会話を聞くともなしに聞く事になる。

 「ねえノイマンさん…」
 「なんだ?」
 「お寿司ってぇ…」
 どうやら主導権を握っているのは、自然な動作でおしぼりで手を拭いている、蒼い髪の青年の方らしい。もう一人は、同年代ではあろうが妙に落ち着きがない。というより、場慣れしていないという印象。店の主を気にしてか、小声ではあるが…当然トダカには聴こえている。
 「普通に二人でお腹一杯食べたら…どれ位するんです?俺、こういうお寿司屋さんって親と一緒に数回来た事があるだけで…」
 「どれ位ってお前、ネタにもよるだろ。高いのばかり食べたらそりゃ会計だって跳ね上がるだろう」
 「いやだから平均して、」
 「こういう場合、平均値を出す事に意味はないな」
 「・・・・・」
 「俺が出すって言ってるんだから、気にするなそんな事。好きなもの食べろよ」
 「ノイマンさんが出すって、そもそもそれウチのお金じゃないですか」
 「…俺の小遣いから出すってば」
 「でも、」
 「トノムラ」
 苛々して、という声ではない。だが、トノムラと呼ばれた青年は詰まった様に口ごもり、しばらく黙ったままだった。
 会話が途切れたので、トダカはさり気なく注文を問うた。
 「そうだな…とりあえず中トロと今日のおすすめ、頼む」
 「お二人とも?」
 「―――あぁ」
 トダカの問いにノイマンは一瞬隣に目をやり、すぐに頷いた。
 カウンタの内と外を分ける形で在るショーウィンドタイプの保管庫から、ネタを取り出す。染み付いた手の動きに任せ、トダカは妙に気を惹かれる二人の若い客の会話に耳を傾けた。


 「ノイマンさん、前にもここ来たんですか?」
 「会社の連中とな。美味かったし、お前の気にしてる面でもリーズナブルだよ」
 「っていっても、寿司屋な以上やっぱりそれなりなんでしょう?」
 「トノムラ、せめて食べてる時くらいは忘れろよ、味分からなくなるぞ。せっかくお前に美味い寿司食べさせようと思ってるのに、これじゃ何の為に来たのか分からない」
 「う…頑張ります…」
 それでも苦い顔をしていたトノムラだったが、トダカが寿司を差し出すと、途端に目の色を変えた。
 「うわー、美味しそう!」
 「中トロと、マダイになります」
 早速一貫口に運んだトノムラは、数回咀嚼すると、連れの腕を引っ張った。食べかけていたノイマンは手を止め、ようやく嚥下したトノムラが口を開くまで、食べようとはしなかった。
 「っごい、美味いですね!」
 「…だろ?」
 トノムラの笑顔にノイマンも満足そうに微笑み、そうして自分も一口で寿司を頬張った。
 「この魚って、今日とれたのなんですか?」
 「ええ、うちは基本的に冷凍物は使ってませんから」
 「へえ〜…やっぱりちゃんとしたお寿司屋さんはそうなんだ…」
 「うちの冷凍庫はいつも満杯だもんな」
 茶を飲んだノイマンが悪戯めいたツッコミをするとトノムラは、連れと店主の顔を交互に見ながら赤面した。
 「ちょっとノイマンさん、止めてくださいよ…」

 それから数回、注文の応酬があり―――トダカが握る度に、トノムラは飽きもせず同じ顔で美味しそうに食べ続けた。
 気がつくと、トダカも頻繁に会話に参加していた。―――面白い客だと、思った。

 「うちのネタ、知り合いから仕入れてるんですよ」
 「漁師さんに知り合いがいるんですか」
 「ええまあ、古い同業者で」
 トダカが疑問に答えると、アナゴを食べていたノイマンが口を挟んだ。
 「てことは、店主も以前は海に出てた?」
 「―――昔の話ですよ」
 「でも、もし今でも漁師さんやってたら、自分で魚獲って自分で握るお寿司屋さん、になりましたね」
 「はは、さすがにその二足草鞋はキツイでしょうな」
 「あ、それもそうか」
 トノムラが目をぱちくりとし、ノイマンが横で苦笑する。


 「でも、今でも好きなんでしょう?」

 おっとりとした目つきで、トノムラが不意に聞いてきた。
 「え?」
 「だって、あれ、店主さんでしょう。船と一緒に映ってる写真」
 指差した先は―――カウンタの奥に飾り気なく掛けられた、小さな額。
 自分の船の上で、誇らしげに立つかつての自分。
 …この写真を飾ったのは、何故だったろう。
 思い出せない胸中に、トダカは僅かに困惑した。足の下で揺れる波の錯覚。
 黙ったままのトダカに、今度はトノムラが困った様子でノイマンを振り返った。
 涼しい顔の変わらぬノイマンは、連れのフォローなのか微妙な口調で言う。
 「―――ここからだとよく見えないな。船の名前は何だったんです?」
 「…よくある、聞いても次の日忘れるような、ありきたりの名前ですよ」
 トダカが微笑すると、ノイマンはそれきり会話を続けようとはしなかった。換わりに、再びトノムラが口を開く。
 「えー、気になるなあ。何とか丸とか、そういうのですか?」
 「―――タケミカヅチ」
 「え?」
 不思議そうに聞き返すトノムラの顔を見てやっと、トダカは自分が呟いていた事に気づいた。
 「タケミカヅチ、って名前ですよ。完璧に名前負けしてる船でしたけどねぇ」
 当てるべき漢字が想像できなかったのだろう、トノムラは不思議そうな表情を崩さない。
 「建てる、雷の、命って書くんですよ。それでタケミカヅチ」
 「たけ、みか、づち…?全然ありきたりじゃないような」
 「神話のね、神様の名前を拝借しまして。聞いたことありませんか、国譲り神話で、荒ぶる神を打ち破って平定をもたらしたという…。武術や雷の神様なんですが、土着神としては海上航行の神様でしてね」
 「へえ〜…」
 「本当はもっとたくさん漢字をあてる場合もありますけど、あんまり多いと覚えにくいし面倒でしょう」
 「ふぅん…まあ、神様の名前なら、縁起良さそうですよね」
 「―――でも選択を誤ったかもしれませんね」
 「?」
 「結局その船はもうないんですから」
 「・・・・・」
 しまった、という思い露わなトノムラの表情。
 「ええっと…あの…あ、そうだ!もし、もしもですけど、また船に名前つけるとしたら、今度は何てのにします?」
 焦った余りかフォローになっていない事を口走るトノムラに、さすがにノイマンが眉宇を顰めてトノムラの肘を突く。
 だがトダカは、不思議と嫌な感情を覚えなかった。それどころか、青年の問いに真面目に考えている自分が在った。
 「そうですねえ…また、同じ名前にするでしょうね」
 「え、そういうものなんですか?」







 その夜、トダカは夢を見た。
 夢の中の自分は充足感で胸を一杯にし、愛しそうに真新しい船舶を見つめている。
 自ら塗料を手にして、船体に名前を書き込む。
 船に命を与え、刻み込む。
 最後の一筆を終えようとする寸前、
 夢は終焉。
 目覚めたトダカは、一体何と書いたのか覚えていなかった。
 しかし、もし今墨のついた筆を持ったならば―――きっと、夢の中の名前を書けると、確信できた。
















 久し振りに新作出したと思ったらトダカかよ!…というツッコミが飛んできそうです…。何かもうかなりトダカフィーバーです脳内。
 いやまあ、エピソード自体はpsad発動時点で既に組み上がってたので、アウトプットするだけだったんですけどね…。船のエピソードは元々なかったんですが、公式でトダカが今度乗る戦艦の名前が出てたので、こりゃ使うしかねぇなと思って(笑)。
 以下余談。
 日本神話において、タケミカヅチはタケミナカタと戦って勝利し、国譲りを平定へと導いた神。二柱のこの戦いが相撲の原点だとか。軍神・武神・弓神・雷神などなど司るものは多いですが、これと寿司屋はつながらねーなー(笑)と思いつつもう少し調べたら、神話に組み込まれる(?)前はとある地域の土着神として、海上の交通を守る神だったという話に当たり、これなら使える!と…。かなり端折った説明ですのであしからず。(面倒くさがりめ)
 ザフトや連合の固有名詞はギリシア神話系、オーブの固有名詞は日本神話系(カグヤとか)みたいですね。ちなみにミネルバはギリシア神話のアテナをローマ読みしたもの。知恵や戦いの女神ですね。梟が象徴だけど、ミネルバ艦内で梟は飼ってないだろうな(笑)。カグヤは武器の名前とか火の属性だったか。でもギリシア読みとローマ読みがごっちゃなのは何故だろう…アルテミスはギリシア読みだもんね(ローマ読みならディアナになる)。ただ単に語感で選んでるのかな…。

2005/3/9 雪里