※「勿忘草」の後に来るエピソードですので、未読の方はまずそちらをどうぞ。










 ほんのちょっとのごく普通な恋を経てきただけの彼女であったから、一応の見合いの成立=結婚という方程式を眼前に打ち立ててしまうのは致し方ないところだろう。これまでは親に押し付けられているという意識が先に立って、意固地になっていた部分が消えたのだ。
 無論彼女とて世間一般から多少ずれてはいるものの、健全な若い女性である。事実結婚の前に、色々と経験したい事、身につけておきたい事―――は山程あった。

 己にすら半信半疑で付き合い始めて、それでも気が付けば。
 二人で過ごす時間が楽しく、「また今度」と別れの言葉が名残惜しく、次の機会には何をしようと計画を無意識にしている―――これも恋と言っていいのかな、などと最近のナタルは思っている。
 別に問題はないのだが、何となく互いに暗黙の了解で、社内には秘密にしているのも…恥ずかしいような嬉しいような。





庶民志向。





 週末、金曜の夜。
 恒例になりつつあるチャンドラとの夕食の最中、ナタルの手がはたと止まった。
 「―――?」
 「で、ですね…そいつの家の台所って、ほぼ全部百均で揃えてあるんですよ〜―――ナタルさん?」
 「あ、すまない。…その、百均、とは…何だ?有名な店の名前か何かか?」
 今度はチャンドラの手が止まる。
 「…知りません?百円均一…」
 「百円、均一…つまり、売り物が全て百円、という事か?」
 「ええまあ、言葉通りですが」
 「どんなレベルの商品があるんだ?」
 「え〜と…ピンキリだとは思いますけど…まあ、結構掘り出し物があったりも…それこそ俺の友人みたいに、台所の中が全部揃えられるとか、あとはそうですね…いや、最近の百均はない物を探す方が難しいんじゃないですか、乱暴に言ってしまえば」
 まさか本当に何も知らないのだろうか―――チャンドラが測りかねている間、ナタルの思考はフル回転で活動していた。
 (生活用品が全て百円で揃えられるという事か?信じられん…粗悪品ばかりなのではないか?しかしもしそうなら、普及するとも思えんし…だが消費者が悉くその百均とやらに目を向けてしまったら、流通産業が滞るのではないか…いやいや、いつの時代も高級志向というのは絶えぬものか…)
 「あのー、ナタルさーん?」
 ついにフォークを置いて考え込んでしまったナタルの眼前で、控えめに手が振られる。
 「―――――。…っ!すまない、」
 「いえいえ…大丈夫ですか」
 なにやら心配そうに覗き込んでくるチャンドラに笑顔を返し、ナタルは食事を再開する。
 (もう少しリサーチの必要がありそうだな…私は一般庶民的概念が欠如しているのかもしれない)
 『普通』の恋愛を楽しみたいと切に願うナタルにとって、上流家庭に生まれ育った事は些細な障害になりうるらしい。





 社内ロビィに設置された自動販売機は、時に即席井戸端会議場所となる。午後の遅い時間にそこで鉢合わせたノイマンとナタルは、例に漏れず紙コップのコーヒーを持ちながら立ち話を始めた。
 「アーノルド、百均というものを知っているか」
 「ヒャッキン?―――あぁ、百円均一のこと?」
 「…お前も知っているのか…」
 何故か悔しそうに眉を顰めるナタルに不思議そうな視線を向け、ノイマンは一口コーヒーを啜った。
 「って言っても、この間初体験だった。一応名前は知ってたけど…行こうとは思わなかったしな」
 「でも、行ったのか?」
 「うん。トノムラが行きたがるから、買い物のついでに」
 「そうか…で、どうだった?」
 「どうって?」
 「だから…本当に全部百円なのか?」
 「そりゃ、百円均一ってうたってるんだから当然だろう。いや〜なかなか面白かったよ。物も人も多すぎて目がちかちかしたけど。あれじゃ欲しい物を探し出すのも一苦労だな。もっとも、トノムラの身のこなしといったら…あいつ絶対主夫の才能あるなー」
 「ふぅむ…」
 ナタルのコーヒーは消費されぬまま、冷めていくばかり。
 ちなみに通り過ぎていく社員は皆、二人が高尚な話か仕事の打ち合わせをしていると思い込んでいる。見る分には『デキる有能社員』の二人連れに見えるらしい。
 「やはり、そういう所も知っておくべきだろうか…抑えられる出費は抑えるに超した事はないしな…」
 「ん?何ナタル、随分家庭的な事言うね」
 「私も色々考える事があるのだ」
 「へえ、」
 ノイマンが面白そうに目を細め、一歩ナタルに近付いた。
 「その変化の原因は、もしや遅咲きの春?」
 ―――ぱっと、頬が桜色。
 「なな何の事だ、別に私は、その―――一般的な感覚を身につけたいだけであって、あれだ、もし、もしもの話だぞ!…家庭に入る事を考えたら、あれだ、知っておいて損はないだろうという…」
 「分かった分かった、いいよそれ以上言わなくて」
 ノイマンは既に吹き出したい欲求を必死に堪えていた。
 「何だその言い草はっ…」
 「何でもないって。そんなに百均体験してみたいなら、うちの自慢の庶民派主夫を紹介するよ」
 「・・・?トノムラのことか?」
 「一日あいつの買い物に付き合ったら、さすがのバジルール女史も庶民の何たるかを実感できるかと思われますが」
 にやにやと何かを企む笑み―――一見人の良さそうなこの笑みが、付き合いの長いナタルにはこう見える―――を浮かべるノイマンを疑わしげに睨む。
 「妻を溺愛してる旦那にしては気前がいい話だな」
 「何を言う、学生時代の友人の幸せを願って言ってるんだぜ?買い物の間は旦那同士で…あ、そっちはまだ彼氏か…時間潰しててやるから」
 つまりノイマンは、2カップルで買い物デートを敢行しようと提示しているのだ。その心は―――楽しんでいる、だけなのだろう、多分…。
 尚も不審を解かないナタルに、ノイマンは最後の一手を打った。
 「来週の日曜でいいだろ?チャンドラには俺から言っとくよ、どうせ同じ部屋だ」
 ぽい、と空の紙コップが放られる。宙に無彩色で描かれるその軌跡を目で追い―――ナタルははっと我に返った。
 「ノイマン、何で知って―――!?」
 だが、答えの代わりに返ってきたのは、ひらひらと振られる手、だった…。

 侮るなかれ、ノイマンの恋愛感知センサ。










 「ナタルさん、それはやめといた方がいいですよぅ!ほら、お茶碗の底ちょっと欠けてるでしょう」
 「おぉ、本当だ…よく見てるなあトノムラ」
 「たかが百円って言っても、どうせお金出すなら少しでもいいもの欲しいじゃないですか」
 「成る程なあ…むっ、何と…こんなものまで百円なのか…」
 「でも百円だからってついつい買い込んじゃって、後でやっぱり要らないーってなったりしますから、要注意ですよ!」
 「…言われてみれば…ありがとうトノムラ、ためになる」
 「いえいえ、そんな…俺でよければいつでも相談乗りますからっ」
 「ああ、頼りにしてる」

 絶賛活躍中の主夫と、未来の主婦候補の買い物は、まだまだ続きそうである。

 「まったく、いきなりダブルデートとか言いだすから何かと思えば…」
 「面白い光景じゃないか」
 「それが目当てなんでしょうが」
 いつまで経っても終らない買い物にさすがに待ち疲れ、先に車に戻っていた旦那と彼氏は、揃ってフロントガラスを眩しそうに見遣った。
 嬉しそうに買い物袋を抱えてこちらへ歩いてくる、それぞれの相手を愛しく思いながら。
 「案外庶民派主婦になるかもな、ナタル」
 「俺の目下の期待は、初の手料理ですよ」
 「言うようになったな、チャンドラ」
 「ノイマンさんに比べたら小さい小さい」












 「ナタルは百均を知らないんじゃないか」といううっかりの会話から(笑)。

2005/3/25 雪里