教授の助手も無事済ませ、買い物も済ませて帰宅したトノムラは、お昼ごはんのエビフライ(お弁当の残りだ)を齧りながら、隣のマリューから借りたお菓子のレシピブックを眺めていた。
「う〜ん、やっぱりお菓子は難しそうだよな〜…でも、普通に作ったんじゃ、ノイマンさんの口には甘すぎるしなぁ…」
いくら甘くても食べると言ってはいたが、食べてもらうなら美味しいと言って欲しい。
普段、料理上手だと褒められている手前、下手なモノは作れない。
「さて、と…じゃ、頑張りますか!」
気合を入れながら揃えた材料とレシピを広げ、トノムラがエプロン姿で腕まくりをしている頃。
「いらっしゃいませー」
アーサーが自動ドアをくぐると、間を置かずに出迎える明るい声。
そちらに目を向けると、カウンターの向こうに赤いツインテールが揺れていた。ショーケースに並ぶドーナツを補充していた彼女が顔をあげると、アーサーと視線が交わって、可愛らしい笑顔を見せた―――アーサーも思わず微笑む。
(やっぱ可愛いな〜、メイリンちゃん…!)
「あっ、アーサーさん、こんにちは!」
「こんにちは、…今日は、学校休み?」
「はい、今日は高校入試なので私たちはお休みなんです」
「そっか、」
ミネルバドーナッツ大学前店の常連であるアーサーの顔を、メイリンは覚えていた。元々人の顔を覚えるのが得意な彼女であったが、『いつもオールドファッションを注文する常連さん』であるアーサーは、特に記憶に残る存在で。
―――やがて一言二言、言葉を交わすようになり、今ではアーサーがやってくると日常会話を交わすまでになった。
ちなみに、この段階に辿りつくまでには人知れずアーサーの苦労があったのだが、その話は別の機会にしよう。
「えっと〜…、チョコリングと…オールドファッションと、ホットで」
「ありがとうございま〜す」
メイリンは手馴れた様子でレジを打ち、アーサーが財布から代金を取り出している間に、ショーケースからドーナツを取り出して皿に乗せた。
そしてコーヒーを淹れ、皿と一緒にトレイに乗せ―――最後にピンク色に光る小さなハートを2つそこに加えた。
思いがけぬ展開に、アーサーは目を見開き、カウンターに置かれたトレイを見つめる。
「お待たせしました〜」
「え、―――ッ…?メイリンちゃん、これ、」
「今日はバレンタインだから、…チョコレートなんですけど、もしかしてお嫌いですか?」
「いっ、嫌!…じゃなくて、大好きだよ、チョコレート!!」
アーサーの返事に、メイリンが再び笑顔を見せると、アーサーの心臓は天国へ舞い上がらんばかりの動悸に襲われる。
(こんな風にさり気なくチョコレートくれるなんて…義理か!?いや、義理に見せかけた本命!?うわー、でもマジ嬉しい〜ッ!!小さいハート型なんて、また可愛いなぁ〜!一人でも来てよかったーっ!!デュランダル教授の50個なんかメじゃないね、絶対こっちの1個の方が美味しいに決まってる!!)
おかわり自由のコーヒーサービスのポットを持って店内を歩いていた店員:ルナマリア―――メイリンの姉である―――は、奥の席に一人座って勢い良くドーナツにむしゃぶりつく青年を見ると、呆れ顔で戻ってきて妹を突付いた。
「ねぇ、アンタさぁ…」
「何、お姉ちゃん?」
「今日のチョコレート、『サービスです』ってちゃんと言ってる?」
「え、言ってるよ〜!『バレンタインなので』って…」
無邪気に答える妹に向かって、思わずルナマリアは肩を竦めて見せた。
―――本日、バレンタインデーにつき、当店ではチョコレートのおまけサービスを行っております―――…わざわざ、彼に教えてやることだろうか。
「あれ、絶〜っ対、勘違いしてるわ…」
知らないほうが幸せなことって、世の中いっぱいあるわよね。
ルナマリアはそう自分に言い聞かせると、不思議そうな妹に向かって首を振った。
ノイマンがドアの前に立って待っていると、内側から開かれたドアの向こうに笑顔で迎えるトノムラの姿があった。
「おかえりなさい、」
「ただいま」
玄関に入ってまず愛する妻にキスをしてから、ノイマンは靴を脱ぎつつ、持っていたペーパーバッグを差し出すと、それを受け取ったトノムラが中身を覗き込んだ。
その中身はもちろん、ノイマンが受け取った本日の『気持ち』である。
「うわー、やっぱり沢山頂いてきましたねぇ…あれ、ワインも貰ったんですか?」
「ん、ワインはナタルから。お前の分は別にくれたぞ、その金色の小さい袋のやつ」
「え、俺の分も?わ〜、嬉しいです!…えへへ、ホワイトデーにお返ししなきゃ。でも、流石ナタルさんですね〜、ワインだなんて」
「ああ、早速夕飯の時にでも頂くとするか―――今日は何?」
「今日はハンバーグにしましたよ。あと焼くだけなんで、ノイマンさん先にお風呂入っちゃってください」
「分かった―――それなら、ワインも合うだろう…で、」
ノイマンにとって本日最大の楽しみを、さり気なさを装った視線でトノムラに問う。
普段のポーカーフェイスが全く崩れているその顔を見て、思わずトノムラは噴出した。
「ちゃんと用意してありますよ―――そんなに焦らなくても無くなったりしませんって…食後のデザートってことで」
トノムラの言葉に満足げに頷いたノイマンは、まるで子供のような表情をしている。
上機嫌でバスルームに向かっていった旦那の姿に、トノムラもなんだか楽しみになってきた。
一体、どんな反応をしてくれるだろうか。
夕食を終え、ノイマンは先ほど開けたワインの残りを、リビングのソファに沈み込みながら味わっていた。トノムラが食器を片付ける水音だけが聴こえてくる。
貰ったワインは流石に彼女からだけあって、良いものだ。
尤も、ナタル自身はアルコールを余り好まないが―――きっと、買うときに色々と見聞きして、考えてくれたのだろう。
明日会ったらもう一度礼を言おう、と思っていたらトノムラが『ホワイトデーには3倍で返さなきゃダメなんですよ』と教えてくれた。
…女性も何かと大変だと同情したが、貰う側にも相当の覚悟が要るものだったんだな、と思わず言葉が出てしまうのも仕方ないだろう。
「はい、ノイマンさん、」
ノイマンがそんなことを考えていると、いつの間にか片づけを終えたトノムラが笑いながら近づいてきていた。
顔を上げれば、トノムラは手にしていた皿をそっとテーブルの上に置く。
ノイマンの目の前に置かれた皿の上には、チョコレート色のケーキがちょこんと乗っていた。
「へぇ…これが、お前の俺への『気持ち』なワケだな?」
てっきり予想では普通の固形チョコレートを想像していただけに目の前のケーキが意外で、ノイマンが手を付けずにそれを見ていると、トノムラが恥ずかしそうに急かしてくる。
「えっと、多分、美味しいと思うんですけど…マリューさんからコツとか聞いて、初めて作った割には、結構上手にできたかなって、―――もう、ノイマンさん、そんなにじっくり見てどうするんですかぁ…!」
「いや、こう、感慨に耽っていたというか、な。…では、いただきます」
添えてあったフォークで一口分だけ取って、口に運ぶ。
すると、これまた予想を裏切られた―――アルコールでしっとりとした生地の中に、ほんのりとした甘さのチョコレート。甘いものを受け付けないノイマンでも、素直に美味だと思える。
「あの、…どう、ですか?」
ノイマンがケーキを食べるのを些か不安げに見つめていたトノムラが、遠慮がちに口を開いた。ソファに座らず、何故かテーブルの脇に正座しているため、その視線は自然と上目遣いになっている。
そんな彼に、ノイマンは頷いて見せた。
「美味しいよ―――凄いな、お前は。パティシエ目指してもいいんじゃないか?」
「ホント?ホントに美味しかったですか?ノイマンさん、我慢して食べてないですか?」
「我慢なんかしてないよ、本当に美味しいと思ったから褒めてるんだ。チョコレートってこんなに美味しいモノだったんだなぁ…」
そう言ってノイマンがもう一口食べて笑顔を見せると、トノムラは安堵の表情を見せ、それが笑顔に変わっていく。
「良かったぁ…ノイマンさん、甘いもの好きじゃないのに、どうやったらチョコレート食べてくれるかなって、色々考えたんです」
「お前が作ったものなら何でも食べるって言ったじゃないか」
「そうですけど、でも、やっぱり喜んで欲しかったし…」
結局、トノムラはこうして自分のことを想って努力してくれた―――その事実が、ノイマンにとっては何よりも愛しい。
「お蔭で期待以上―――有難う、トノムラ」
顔を引き寄せて口付けると、トノムラが照れくさそうに笑う。
「あっ、俺もナタルさんからもらったチョコレート、食べてみようっと」
見つめてくるのが気恥ずかしかったのか、ノイマンから視線を逸らしてからトノムラはそう言って、ナタルがくれた小さなペーパーバッグの中身を取り出した。そうして、小さく歓声をあげる。
「わ、このチョコレート高いお店のだ!凄い、美味しそう〜!」
箱に詰まった中身を見て、目を輝かせたトノムラ―――そこからいかにも、な甘い匂いが漂う。
「甘そうだなぁ…」
「チョコレートは甘いモノなんですっ!いただきま〜す…―――う〜…おいひぃ〜…!!お口でとろける、ってこういうコトを言うんですねぇ…!」
自身がとろけそうな顔をしながら、至福の味に酔いしれているトノムラを横目に、ノイマンもケーキを味わい終える。そうして、グラスに残っていたワインも飲み干すと、音もなく立ち上がった。
「もう一個…―――ノイマンさん?」
その動作に、チョコレートを口内で転がしていたトノムラが怪訝そうに見上げてきた。
―――その身体を、素早く抱え上げる。
「えっ、ちょっ…!?」
突然宙に浮いた自分の身体に驚いて、暴れかけたトノムラを制しながら、ノイマンは一直線にベッドルームへ向かっていく。
そうしてノイマンはベッドの上にトノムラを転がすと、その身体が逃げ出す前に覆い被さって動きを封じてしまう。
「ノイマンさん!」
「ん?」
非難の声を、飄々とした表情で受け止める目の前のノイマンにはいっそ呆れる。
「ん?じゃないですよ…いきなり何するんですか!」
「そろそろ一番甘くて美味しいモノを頂こうかと、」
恥ずかしげも無く言い放って、悪戯っぽく唇を啄ばみながら、その手は既にトノムラの衣服を脱がせにかかっている。
触れてくる指先に思わずトノムラは流されそうになったが、必死で押し止めた。
「ちょっ、待ってください・・・!」
「テーブルの上なら、俺が後で片付けといてやるから」
「違っ、そうじゃ、なくてっ!」
「…何だ?」
己の身体の下でトノムラが必死にもがくので、首筋に顔を埋めていたノイマンは面倒そうに顔を上げて、トノムラの顔を覗き込んだ。
何とか解放されたトノムラは、呼吸を整えつつ、何か言葉を探すように視線を宙に彷徨わせる。
「えっ、と…」
「…そんなに待たないぞ、俺は…何?」
強い翠の圧力に一瞬トノムラが怯んだが、何やら一生懸命言葉を整えようとして、口をもごもごと動かしている。
「…あのっ、俺…―――ノイマンさんのこと、すき、です…」
最後の方は、蚊の啼くような小さな声を搾り出すように。それと共に合わせていた視線も逸らしてしまうトノムラ―――頬が真っ赤に染まっている。
唐突な告白に、虚を突かれたノイマンは目を丸くしたが、やがて口の端に笑みを浮かべる。
「どうしたんだ、珍しいな…お前からそんな風に言うのは」
火照り、熱を帯びる頬を撫で、柔い髪を掻き揚げてやると、伏せていたトノムラの目がゆっくりと上向く。
「…だって、好きな人に愛を告白する日、でしょう?」
普段、言葉にするのは照れるくせに―――いや、だからこそ、今日という日の力を借りて、言葉になったトノムラの『気持ち』に―――限りない幸せを実感する。
「俺も、好きだよトノムラ―――…ちゃんと、来月には3倍、いや5倍で返すからな!」
「…なんだか、あんまり返して欲しくないのは俺の気のせいですか…」
甘く、甘く囁いたはずの言葉をため息混じりに返されても、それも彼らの幸せのはずである。
「やっぱりアクセサリーとかがいいのかなぁ…でもなぁ…」
その夜、アーサーはホワイトデーに何を返すべきか真剣に悩んでいた。
―――彼がチョコレートの真実を知るのは、1ヵ月後である。
終わり。
正に悲喜交々バレンタインディ…(苦笑)もうこいつら勝手にやってくれ!って感じのノイトノの一方で、勘違い大暴走野郎アーサー。
早くアーサーにも幸せが訪れることを願ってやみません…(遠い目)。
2005/02/15 かない。
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